「大成した人は幼い頃から慣れ親しんでいた道だった」的な話である。
何となく納得がいく様な気もするが、そうでもない様な気もする。
と云うのも、幼い頃から慣れ親しんでいた道を進んでも、大成できなかった人もいるのだ。
更に、大多数は「親から押し付けられたものは嫌いになる」法則が適用されるので、失敗例となり、僅かな成功例から結果を類推してもあまり参考にはならないのである。
野球など人生よりずーっと長い歴史がある分野ならもしかしたら幼い頃からやっていれば成功例になりえるかもしれないが、PCの様に歴史がやっと数十年になり『レールが充分伸びてきた』と云ってよいのだがモバイルに押されてヨタヨタで先は長くなさそうである。
でも、「もう野球は飽きられた」と云う時期(野球中継がどんどん無くなっていた時期)も彼らは黙々と野球をやっていて、彼らが輩出したことで「野球自体が見直された事実」を考えると、廃れ流行りに敏感なすぎても成れるものではないだろう。
残念だがその分野の「申子」と呼ばれた人たちは「天賦の才能」を持つ「運の良かった」人たちである。
アタリが少ない「成功例」と云って良いだろう。
- なれてよかったね。滅多になれるものじゃないんだよね。
- なれなくて残念だったね。でも大抵の人はいつか卒業するものさ。
程度の話でしかなく、あまりこだわっても無駄でしかない。
極端な話、宝くじの一等を引き当てる人は少なからず実在するハズだが、それも「運の良かった」人たちでしかないことと同じことであり、その人たちのマネをしても一等を引き当てることは至難の業で、仮に引き当てたならやはりその人も「運の良かった」人たちの一人になるだけの話である。
つまり、宝くじを買わなければ一等を引き当てる可能性は0だが、買ってもほぼ0である様に、幼児教育も確かに必要なのだろう。ただし、大成する可能性はほぼ0である。
その辺の十分な理解が必要だろう。
ま、早い話が「やってみないことには判らない」だけの話。(大笑