と書くと大抵は「日本製品の品質は高品質」の話になる様だが、
最初から「日本製品の品質は高品質」なハズは無く、
日本製品は「安かろう悪かろう」が最初のスタートラインであった。
ただそのままでは「売れにくくて仕方が無い」ので
「少し品質を上げる」
⇒際限の無い「少しづつ品質を上げる」の繰り返し
⇒「実質的な高品質」
となったダケだったのだ。
なぜか「高品質」に尖った方向に突っ走ったのかと云えば
当時「日本製品」のほとんどが、独自性のある商品は少なく、どの会社も似たようなものを売っていたので、
ケア・サービスや品質ぐらいしか差別化できるものが無かったといって良いだろう。
※手厚いケア・サービスを行うには、まず壊れにくい製品でないと採算が合わないという面もある。
しかし、今では為替相場次第では「いつまでも輸入品の方が安価」な状況が続くこともあり、「高品質」だけに拘る必要性が無くなってしまった。
さらに「売れ筋の安価な輸入品」でしかなかったものでも「10年」も作っていればそのメーカーも「目が肥え、技術も熟してくる」のも道理であろう。
多分、「日本製品の品質は高品質」と重宝される商品は「そんなものを作る気が起きない」会社が多いということなのだろう。
10億で研究するより、1億でコピーする方が安いと云う話もあるが、
「10億で研究する」ことは、「研究として10億分の不良品を作る」のと同じであり、最後に「まともな製品」が出来るかどうかは判らないのだ。
だから目の前に「まともな製品」があるのなら、コレを「1億でコピー」して「まともな製品」が作れるかと云えばそれも結構怪しい。
「1億でコピー」って「まともな製品」が出来ると云うことは「もともと、コピれるだけの素質がある」と云うことであり、「10億で研究する」なら、もっと凄いものが作れる可能性があると云うことだ。
だから、「1億でコピー」ってしまうには「1億でコピれるだけの素質がある」人材や組織が必要になる。
それはそれで「凄い人材や組織」と云うことになる。
ただ、そういう「凄い人材や組織」はいつまでも格安の給料と予算で働いてくれるのだろうか?
「1.1億でコピーれ」というトコロに流れるのも道理であろう。
そして「1.2億でコピーれ」というトコロに流れるのも道理であろう。
そして「1.3億でコピーれ」というトコロに流れるのも道理であろう。
・・・
となり長続きしないワケである。
だから、「日本製品の品質は高品質」なのは
「1.1億でコピーれ」というトコロに人材が流れていかないというか
「人材の交流があまりない」というのが本当の理由なのだろう。