記事の文字を1つづつ見ていくなら、処理回路は一式あればいい。
でも斜め読みするには、文字の列(単語)を大雑把なパターンとして処理しないと無理なので、単語が空白で区切る言語(This is a pen.)は斜め読みしやすい。
しかし、文字が最後まで繋がる言語(我発見新頭脳)では、全てのパターンの組合せた辞書が頭の中にないと、文字の列から単語を抽出することは難しい。
なので、歳を取ると少しづつ記憶がぼやけてしまい、段々と文章は、「空読み」(多分、こんなことを書いているハズ(キリリ)になっていくので、
「****」 や 「NOT ****」 は支障ないが、「if ** then if ** then if ** then ** else **」などは「else **」の条件が読み取りにくく、
コンピュータ言語風に
if ** then
if ** then
if ** then **
else **
または口語調に
if ** then
else if ** then
else if ** then **
else **
とか
switch(**)
case **:**
case **:**
case **:**
default:**
と、書かないと判らなかったりするが、それだって、縦に文字列が並ぶ「構造化プログラミング」を学習した老齢のプログラマーにしか通用しない。
そんな訳で、小説などは、時系列のストーリーとして一本道に様々な事象を織り込む手法がとられている。なので、ifやswitchなどは精々、一本道のストーリーを複数の視点から追うのがせーいっぱいである。
もっと短い文法などは、概ね「この順番に単語を並べる」と「大体意味が通じる」傾向が高い文例の寄せ集めに過ぎず、また数も多くはないが、たくさんの人に読み取ってもらえることが可能な文字列の組合せしか使えないのだから仕方がない。
沢山の文法や文例を覚えていないと生活できない文化圏ならば、なかなか成人になれず、子供の期間が長く続き、最後には文化圏そのものが子育てで疲れてしまうだろうし、もし大方が既存の沢山の文例を覚えるのがせーいっぱいなら、新しい文例を編み出してもなかなか伝播せず、いつまでも同じ日常を送らねばならなくなる。それはそれで「古い古典も難なく読める」利点があるが、「何か新しいモノ」が出てくるとそれにあった「言葉」がなかなか通じない不都合もある。
ただ、コンピュータと云う情報支援デバイスが登場したことで、必ずしも子供の期間に沢山の文法や文例を事前に予習しておく必要性が減っているため、たくさんの「ジャーゴン(jargon)」で埋め尽くされたテキストに当惑することは減っている。
しかし、一方で情報支援デバイスと常時連携することで容易にコピペーできるため自分自身のテキスト表現(アイデンティー)があいまいになっており、テキスト以外の情報(見た目)のアイデンティーが重要視される傾向が高い。
右上の Total : 525,762 大半は人間ではなくBOTである。
すでにこのテキストを読む人間は少なく、使用される単語とその頻度、そして過去の単語の使用頻度を比較したリストがどこかに保管され更新し続けられ、わずかなビットを変化させているに過ぎないのだ。