光についての考察

光の速度を測ると、測定器側の速度に無関係に、光の速度は同じ。
という測定結果は「測ってみた結果」なので、その「結果」を尊重してみると・・・
光って素粒子と云うより、残像あるいは光という現象と考えた方が無難な気がする。
つまり何らかの「物質」として「光」をイメージし「速度」を測ろうとすると、「測定」の起点と終点を定めて、移動時間を何かの「定規」(あるいは物理的な制約で間接的に定義)することになる。
しかし、この方法で「残像」や「現象」の「速度」を測定しようとしても、「残像」自体の速度は何かの伝達物質の速度を測る訳では無く、光という「現象」(という情報)が伝達される速度を測ることになり、実は「測定器の『光』現象の測定速度」を測っているのとほぼ同じで、厳密な測定をすればするほど、得られる結果は「光の速度はいつも一定」となってしまう。
・・・気がした。
そう考えると、「光」とは「何らかのエネルギーの伝達手段」ではなく「何らかのエネルギーの伝達された結果(情報)」なのだと。
つまり、
とある「エネルギーA」から「エネルギーB」に変換された際の間(変換に要する時間)を測ってるんじゃないかと
しかし、
「エネルギーA」と「エネルギーB」の両方を同時に測るのはとても難しい。
そのため、「光」という「共有された伝達手段」があるんじゃないかと。
即ち
「エネルギーA」⇒光⇒「エネルギーB」
そうであれば、
「エネルギーA」、「光」、「エネルギーB」はそれぞれ別物なので、質量もバラバラなら、「伝達されるエネルギーが不変」なら、速度もバラバラで構わない。
そう考えると、時間とか光とか身近なモノ(概念)って、「物質世界ではかなり異端児なシロモノ」のような気がする。
勿論、異端児だから似たようなものは早々見当たらないからこそ、概念としてブレが少ない(良く云えば目立ち、悪く云えば異端児)のかもしれない。
更に考えると、一般的な概念ってモノは、
かなり中二病的(思い込みが激しい)な性格が強いのかもしれない。
 
 
 
 
 




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