喜怒哀楽

感情を大雑把に分けると喜怒哀楽になる。
脳で感じる訳で、身体の細胞が喜怒哀楽を感じる訳では無いと思いがちである。
だが、脳だって脳に特化した細胞の塊で、こいつらが喜怒哀楽を演出している訳だ。
感情って自分が受けた色々な情報を集めた結果の評価値といっていい。
そんなものがなぜ生み出されるのか?
1つは自分自身の目標を立てること。

  • 腹が減った(哀)。
  • 獲物がいた(喜)。
  • 捕まえて食った(楽)。
  • 逃がした(怒)。

と行動を促すには大雑把だが丁度良い。また、群れで狩猟をする場合にも使えそうだ。
細かいことを言い出したらチャンス(獲物)は逃げて行ってしまうからね。
脳が作りだす感情という幻想は細胞の塊で感じるものだが、細胞1つ1つに感情が無いのだろうか?
そもそも細胞に感情が無く細胞の集団行動を促す情報として感情があると決めつけるても、「調子が悪い」と特定の化学物質を解き放つのも細胞の感情表現と云えるだろうし、細胞が感情を理解できないと「細胞の集団行動を促す情報」としての価値は無い。
新陳代謝と云えば古い細胞が死に新しい細胞に入れ替わることを意味するが、細胞だって栄養を取り、廃棄物を放出しいるし、新陳代謝をちゃんとやっていないと細胞としても生きていないことになる。
各細胞が要求する案件は数が少ないかもしれないが、全く無い訳では無い。
単に各細胞を下層階級として扱えば都合が良いので意図的に無視している。
そんな意識が働いている様な気がする。
だが、細胞の感情を深く研究すると、いつか「細胞からプライバシーの侵害で訴えられる」ことになるのかもしれない。否、遥か昔(何億年も昔)にそういう事例があり、そう判断が下され、「細胞のことはキニシナイこと」と密約が結ばれたのかもしれない。そう考えると人間の文明ってチート行為に他ならないので、いつかこの世界の運営に見つかったらBANされるのかもしれない。
古代のバビロンの塔を建設した神話で塔の建設を阻止するために色んな言葉に分派させ組織をバラバラにした話も、運営の判断だったのかもしれないが、単に言葉は移ろいやすいものなので、縁遠くなって長い年月を過ぎてしまえばどんな集団でも言葉が通じないという結果に陥りやすい様な気がするけどね。
暴力的だったり自己中心的だったり無関心だったりしても喜怒哀楽は基本的にある。ただそう感じることができないのはやはり言葉と同じくその表現方法自体が移ろいやすいものなのだろう。




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